映画「ファニーゲーム」(1997)あらすじ感想 現実と虚構と暴力に関する考察

監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ

出演:スザンヌ・ロタール、ウルリッヒ・ミューエ、アルノ・フリッシュ、フランク・ギーリング

<あらすじ>

ある夏の午後、ショーバー一家は休暇を過ごすためにレンジローバーでクラシック音楽のクイズをしながら別荘に向かっていた。途中、隣人のベーリンガーと挨拶をかわす。そこには白いシャツと白いズボン、白い手袋を身に着けた2人組の見知らぬ男たちがいた。

別荘につくと妻アンナは夕食の支度に取りかかり、夫ゲオルクと息子は明日のセーリングの準備をはじめる。そこに、ベーリンガーの所にいた2人組の男のうちの1人が、卵がなくなったので譲ってほしいとアンナに話しかけてきた。

アンナはそれを受け入れて卵を渡すが、男は2度も落として割ってしまう。そして3度目の訪問時、態度を見かねたゲオルグに平手打ちを食わされた途端に男の態度は豹変し、近くにあったゴルフクラブでゲオルクの脚を殴りつけ、一家全員をソファーに縛り付ける。2人は悪びれた態度を微塵も見せず、くつろぐように家を占領し続けた。夜になると、2人は一家に「明日の朝まで君たちが生きていられるか賭けをしないか?」と持ち掛ける。こうして、残酷でおぞましいゲームの幕開けが告げられた。(Wikipedia)

「ピアニスト」(2001)「白いリボン」(2009)「愛、アムール」(2012)などで知られるミヒャエル・ハネケ監督の初期の代表作「ファニーゲーム」。

カンヌ国際映画祭では「白いリボン」「愛、アムール」と2作連続パルム・ドール賞を受賞し、巨匠的なイメージが強いミヒャエル・ハネケだが、この映画はいわゆる「ハリウッド映画」のアンチテーゼとして作られた作品であり、掟破りかつ救いのない映画として知られている。

「憤慨させるために作った」、ミヒャエル・ハネケはこの映画についてそう語っている。実際この映画が賛否両論分かれている部分はそこにあるのだろう。この映画が好きじゃない人の評価には不快だとか胸糞だというものがとても多い。

筆者としてはこの映画が凄く好きだ。たしかにジェットコースター的な娯楽要素をもつ映画ではないけど、それでも当時この映画を高校生の時に初めてみたときの衝撃はすごかった。観たくないものを観て向き合ったからこそ得られた映画体験だったように思う。

今回は自分が思うこの映画の魅力について4つの要素に分けて考察してみた。ネタバレを思いっきり含んでいるので、それでも大丈夫な方に読んでもらえたらと思う。



ハリウッド映画のアンチテーゼ

先ほども少し触れたが、「ファニー・ゲーム」はハリウッド映画のアンチテーゼとして存在している映画だ。

つまり、ハリウッド映画でヒーローが振るう暴力が「正当な暴力」であるなら、この映画で登場するのは「理由なき暴力」。主犯のパウルとペーターが家族を暴行する理由は「自分が卵を落としたから」であり、家族には何も落ち度がない。

また、従来のパウルとペーターが自分の過去を語る場面があるが、ここも一般的な映画が描く「加害者」とはかなり異なって描かれる。複雑な家庭で、幼い頃に母が家を出て、ゲイになり、兄弟5人はヤク中、父はアル中…と、パウルがぺらぺらとペーターの育ちに関する嘘を並べたてて、「こういう理由が欲しいか」と問いかけるシーンは印象的だ。

サイコパスのような人間を描いた映画でも、残酷な人間になってしまう理由は複雑な家庭環境だったり、いじめにあっていたりなど何かしら登場するものだし、そうやって視聴者は物事をクリアにしてきた。しかし、この映画の一連の演出はそんなご都合主義的な理由付けを望む視聴者をあざ笑うかのようだ。

もちろん、人間が変わってしまう理由や人格形成する要因など複雑で、一つではないと頭では分かっているはずだ。ただ、それでも映画の中で動機付けをするのは「説明できない」ということが嫌だからであり、このシーンはその願望に迎合して現実から離れてしまった大衆映画に対する風刺とも言えるかもしれない。



掟破りな展開

「ファニーゲーム」はよく掟破りな映画として紹介される。「どれにしようかな」で真っ先に殺されるのが子どもだったり、最後まで生き残った母親があっさりと湖の中に投げ込まれるラストだったり、有名なリモコンでの「巻き戻し」シーン(主犯2人の隙を見て家族が銃で反撃したら、リモコンを使って時間を巻き戻されるというメタ演出)もその例だ。

「リモコン」に関しては賛否両論あると思うが、2人が圧倒的な力を持っていて、初めから「ゲーム」の勝者であることが確定していること、そして暴力そのものを直接表現する役割を果たしている。視聴者のステレオタイプな予想を裏切るこのような展開は、不気味さを演出させるのはもちろん、やっぱり映画の枠をはみ出したものを作ってやろうという意図を感じる。最後に虚構と現実について2人が語るのもそのためだろう。

掟破りなのは音や映像の使い方にも言えることで、突然ハードロックのような音楽がかかったかと思えば暴力シーンなどではほとんど無音。しかも暴力シーンは基本的に画面外で行われるので、効果音や音楽がないにも関わらず、視聴者は常に悪い想像をかきたてられる。血が飛び散った部屋と両親の泣き声のみで子供が撃たれたことを察させる場面は特にイヤな喪失感でいっぱいになる。



現実と虚構とは

ラストシーンでペーターとパウルの2人が現実と虚構について、物質界と反物質界について議論を交わすシーンがあり、それによってこの映画がフィクションであることが明示されていること、そして監督の言いたいことをダイレクトに伝えていることがある意味この映画の救いにもなっている。

「虚構は現実なんだろう?」
「なんで?」
「虚構は今見ている映画」
「言えてる」
「虚構は現実と同じくらい現実だ」

映画そのものは紛れもない虚構であるが、その映画を見て得た知見は現実に反映されてしまうものであり、その境界が明確に引けなくなっているのではという監督自身の警告のようにも思えるセリフだ。

だからこそハリウッド映画のようなステレオタイプな「正義」と「悪」を壊す、この映画の存在する意義があるのだと思う。この映画に対する批判として「暴力とはゲームであり正当な理由なんてないのが現実だ」と示しているにも関わらず、この映画を観て視聴者が心の底から求めるのはこの家族を救うために現れるヒーローのような存在ではないのか、そのヒーローが行った暴力は正当化されないのか、というものがある。

個人的にはこの映画は存在していることに意義がある映画だと思っている。ご都合主義的な映画しかなかったら、知らず知らずのうちにステレオタイプな見方しかできなくなってしまうのではないだろうか。この映画の存在により暴力とは何なのだろう、今まで正しいと思っていたものは本当に正しかったのだろうかと凝り固まった思考をほぐす役割をしてくれていることこそこの映画が名作であると感じる理由であり、それ以上の正解をこの映画に求めるのは野暮だとさえ思う。



まとめ

「ファニー・ゲーム」は不快だとか胸糞映画とか言われることが多いが、その理由は何より視聴者の想定を嘲笑うかのように裏切るような展開と演出によって、今まで信じていたものが根底から揺さぶられるような感覚があるからだと思う。多くの映画は結末が分からないからこそ楽しめるが、この映画では家族がどうあがいても結末がおそらく変わらないということが序盤の段階で視聴者に予感させられる。

ちなみに「ファニー・ゲーム」はハネケ監督自身によって「ファニー・ゲーム U.S.A」としてリメイクされている。セリフを英語に変えて、もちろん映像も綺麗になっているけど、オリジナルとは若干演出やニュアンスが異なる部分もある。この二つを比べてみるのも面白いかもしれない。