家庭教師という仕事の楽しさと限界について。

私は会社員をしながら、家庭教師の仕事も副業でしています。

中学生に対して数学と英語を教えているのですが、これがまた楽しい仕事です。

私が担当している生徒の1人は本当に勉強が嫌いで、多分親が勝手に申し込んだから仕方なく…という感じで授業を聞いてくれてるのですが、

正負の混じった四則演算で躓いていたその子が、自力で連立方程式を解けるようになったとき、なんとも言えない感動を覚えました。

自分が何かをできるようになる喜びと、自分が教えたことで誰かが新しく何かをできるようになる喜びは、種類がちょっと違う嬉しさがあります。

私自身は社会人になり、アラサーになったからこそ、学歴が将来の選択肢に与える影響をある程度実感を伴って知っています。

だからこそ、将来の選択肢を広げることに役に立てるというやりがいも感じます。

これが家庭教師という仕事の楽しさの部分です。

一方でタイトルにもあるように、ある種の「限界」というのも感じています。

それは「勉強を頑張る」というのは手段であり、目的ではないということです。

例えば、私が担当している生徒は極度の勉強嫌いですが、絵を描くのがとても上手です。

もちろん、絵を仕事にできるのはひと握りの人たちですが、絵を頑張る道を模索してみてもいいんじゃないかと勝手ながら思ってしまうくらいには上手です。

あくまでも勉強は好きなことや仕事にしたいことがない人間向けの、将来のモラトリアム期間の延長と、選択肢の数を広げるためにあると思います(もちろん、医者や弁護士になりたいなどの、学校の勉強自体が夢の実現に必要な場合は除きます)。

なぜなら多くの人間にとって、学校の勉強を頑張った先に行き着くのはサラリーマンとしての人生だからです。

そして、色んな親御さんと話して思うことは、親御さんは自分の子どもに天才であることを望んでいるわけではなく、あくまでも「普通」に幸せな人生を歩んでほしいと思っているということです。

だからこそ、絵を伸ばしてそこで好きなことで生きていく道を模索するよりも、勉強を頑張って欲しいと当たり前のように思っています。そして子どももそれを感じています。

もちろん、独身27歳のクソガキが人様の家庭の教育方針に物を申すなど烏滸がましく、その是非を言及したいわけではありません。

ただ、この「普通神話」の根強さを感じずにはいられないと思いました。

サラリーマンとして労働して、仕事で「幸せ」だと感じてる人はかなり少数派のはずです。

それでも、好きなことで生きていく道を模索するより先に、勉強を頑張らせている。それが家庭教師ではどうしようもないと感じた「限界」の部分です。

もちろん、家庭教師としての仕事は「勉強を教えること」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。そのオーダーで仕事を受けている以上、それを全うすることに尽力します。

でも、目的から立ち返れば「勉強を頑張るのは将来就きたい仕事に就けるようになるため」であり、広義的にはキャリア形成の一助となることだと思っています。

そう考えた時に、この絵が得意な少年に、嫌いで仕方ない勉強を教え込み、勉強が好きな人の何倍もの努力をして「できない」を「平均」程度に変えることに意味はあるのか。そんなことをふと考えてしまいます。

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