「あれはいい経験だった」を否定することで、自分を大事にすることができた。

「あれはいい経験だった」「辛かったけど頑張ってよかった」

これはよく聞く言葉です。

そして、私たちはこういった「辛かったけど経験してよかった」ということを少し美徳と捉えすぎている気がします。

私もそうでした。

大学時代、コンビニバイトでフランクフルトの切れ目(?)を上に陳列しなかっただけで怒鳴り散らすような店長のもと、極度の緊張状態でバイトを1年間していました。

AIに作ってもらったコンビニで店長に怒られる私

その時も周りに言っていました、「しんどかったけど頑張ってよかった」「あれはあれでいい経験だった」と。

もちろん、よかったことや学びもあったと思います。(怒られ慣れたとか、あまりにもブラックな労働環境にいると人は余裕がなくなるのかと気づけたなど)

実際、頑張ることがその後の人生において何らかのプラスに働くことも多いです。

でも、「あれはもっと早くに辞めてよかった」「しんどかった」という自分の本音に、どこかで蓋をしていた気がします。

私と同じコンビニで働いていた人たちも、今思えばそういう人たちが多かった気がします。

店長に些細なことで罵倒されるにも関わらず、「厳しいけど、それだけ店のことを考えている」「店長は朝から夜まで週6も働いてるしストレスが溜まっても仕方ない」とそんな風に言っていました(主に主婦の方でした)

そうやって、相手をなんとか理解しようと努めることで、自分の辛い感情に蓋をしていた気がします。

当時は私も学生だったので「そういうものか」と、思っていましたが、今思うと正直馬鹿らしいです。

どんな事情があろうが、人を罵倒するような人間を理解しようと頑張って我慢するなんてどうかしています。

無理やり「いい経験だった」なんて言わなくてもいいし、何とか理由をつけて許す必要はないと今では思います。

頑張ったことによって生まれたプラスの学びを感じることと、自分のしんどかった感情を認めることはちゃんと両立できるということに大人になってからようやく気がつきました。

私はSNSで誰かが考えを発信して叩かれる日常を学生時代から見てきた世代だからなのか、自分の本音に対しても「これを人に言ったらどう思われるんだろう」とまず先に考える癖があります。

そして、それが「きっとこんなこと言ったら世間では認められないに違いない」と考えると、その本音には耳を傾けないようにしようと、頑張るようになりました。

「あれはいい経験じゃなかった」と認めることに勇気が必要だったのです。

自分の心の中の本音は誰にも見せる必要はありません。

過去の経験を美化できなかったり、誰かをまだ許せない自分も許していいと思った方が、かえって楽に忘れられるようになったりします。

あなたのあの笑顔が誰かの心を許すなら

せめて傘の内側はあなたを許して どうか見せて欲しい

これは、BUMP OF CHICKENの「ウェザーリポート」という曲の一節です。

自分だけが見れる、傘の内側の狭い世界の中だけは、自分自身を許してあげようという曲だと理解しています。

自分や他の誰かを許せないことも、美化できない思い出も、そのまま引き連れて生きていいということを、自分と周りにいる人たちに伝えたいなとふと思いました。

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