映画「ミッドサマー」あらすじ感想 居場所を無くした人間の最後の心の拠り所

映画「ミッドサマー」あらすじ感想 居場所を無くした人間の最後の心の拠り所

監督・脚本:アリ・アスター

出演:フローレンス・ピュー、ジャック・レイナー、ウィル・ポールター、ウィリアム・ジャクソン・ハーパー、ウィルヘルム・ブロングレン、ジュリア・ラグソースン、アーチー・マデクウェ、エローラ・トルキア

2018年「へレディタリー/継承」で長編デビューしたアリ・アスター監督の長編第2作目「ミッドサマー」。

批評家からも高く評価され、ネットではそのゴア描写からかなり賛否両論分かれていたホラー映画です。

原題「Midsommer」はスウェーデン語で「夏至」を意味し、スウェーデンの田舎町ホルガで開かれる90年に1度の夏至祭を見に行った大学生たちの話です。

 

あらすじ1. 家族の心中とホルガ行き

大学生のダニーは精神疾患を抱えていた。ある夜、妹から返信が来なくなったことを不審に思い、不安になったダニーは恋人のクリスチャンに電話をかける。クリスチャンからは「かまってもらいたいだけだよ」と言われダニーもそう思うように努めていたが、その後ダニーの妹が両親を巻き込んで自殺していたことが発覚した。ダニーのそばにいるクリスチャンだったが、彼は精神的に安定しないダニーを本当はどこかで疎ましく感じていた。

クリスチャンはスウェーデンからの留学生ペレから「故郷のスウェーデンのホルガで90年に1度しかない伝統行事があるから観に来ないか」と誘われていた。文化人類学を専攻していたクリスチャンは関心を持ち友人たち4人で行くことに決めていたが、ダニーに言いだせないままだった。結局、ダニーも同席したパーティーでホルガ行きは知られてしまうことになり、クリスチャンはダニーも連れて一緒に行くことにする。ダニーはペレからそれが祭りのような楽しい行事であることを聞かされ、自分の誕生日と近いこともあってホルガに行くことに前向きになりかけていた。

 

あらすじ2. 悲惨な儀式に混乱するダニー達

ダニー、クリスチャン、ペレ、マーク、ジョシュの5人はスウェーデンの田舎町、ホルガの幻想的な街並みと人々に圧倒される。村の手前では婚約したばかりのイギリスから来たカップル、サイモンとコニーとも合流し現地の人とも話しながら過ごした。

白夜で午後9時でも明るいままだった。皆で横になっているとダニーは気分が悪くなってしまい、その場を離れて少し歩くことにする。しかし、幻覚作用のある食べ物を口にしたこともあり、皆が自分のことを笑っているように錯覚し動揺してしまう。トイレに入ると幻覚はますますひどくなり気が付いたら森の中で気絶してしまったダニー。目を覚ましたのは6時間も経った後だった。

いよいよ翌日の朝になり、伝統の行事を見ることになるダニー達。老人の男女が飲み物を飲み交わし、崖へと向かっていた。老人の男女は崖の上でナイフを使って手のひらを切り、ルーン文字の彫られた石柱に血をこすりつけた。その後女性の方が崖の淵に立ったと思うと、いきなり飛び降りてしまうのだった。

呆然とするダニー達だったが、彼女はもう血だらけになり死亡していた。そしてその後すぐ男性の方も飛び降りた。男性は足から落下してしまい、かろうじてまだ生きていたが、ハンマーを持った村人たちが彼の顔を順番に殴り殺してしまう。

「まだ生きていたじゃないか。こんなバカなことが許されていいのか」とコニーとサイモンは動揺して叫んだ。村の女性はそんなコニーたちに「18歳までが春、36歳までが夏、54歳までが秋で72歳までが冬なのです」と言った。そして「これは名誉なことなんです。こうして生命は循環するのです。あの方たちは自分の命を全うしたのです」と。ダニーは困惑し帰りたくなってしまうが、ジョシュは平然と論文を書いているし、クリスチャンにも「偏見は持ちたくない」と言われてしまう。

 

あらすじ3. 友人の失踪

翌日、クリスチャンは「この村のことを論文に書こうと思っている」とジョシュに話し、口論になってしまう。ペレにこの村のことを書いてもいいか許可を取ってもらい2人で書くことになるが、2人は別々で村の人たちに調査をしていた。

またある日、マークが倒れた老木に小便をしてしまうと、「それは神聖な木だからやめろ!」と村の老人にひどく怒られる。サイモンがいなくなってしまい、コニーは動転し村の人に話を聞く。彼らは「彼はトラックで駅まで先に行ってしまった。後で君のことを迎えに来る」と話すが「それならなぜ自分に先に言ってくれないんだ」と怒りと不安でいっぱいになるコニー。それを聞いたダニーも不安に思いサイモンを探すが、見つけることはできなかった。

夕食の時間になるとクリスチャンは自分の食べ物の中に陰毛が入っているのを発見する。それはマヤという女性のもので、他にも子宮から出した血を混ぜたジュースなどをクリスチャンに飲ませていたことが分かる。そうすることで結ばれるという風習がこの村にはあったのだ。その夕食の席ではマークも若い女性に呼び出されて帰ってこなくなってしまう。

その夜、写真を撮ることを止められていたジョシュが夜中にこっそりと聖典を調べに行き、スマホで写真を撮っていたところ、背後からきたマスクを付けた男に見つかりそのまま殺害されてしまう。

翌朝、マークやジョシュがいなくなり、その神聖な書物まで消えてしまったことが発覚する。クリスチャンは自分たちが無関係であることを強調し、更に村人から論文のために話を聞こうとするが、別室で「あなたは星占い的にもマヤの理想の男性です。セックスを認めます」と言われる。

 

あらすじ4. 生贄を選ぶ儀式

ダニーは「倒れずに踊り続ける」というダンスで見事最後の一人になり、女王になる。その様子を遠目で見ていたクリスチャンは村人の女性から貰った飲み物のせいで頭が呆然とし幻覚まで見るようになっていた。

女王になったダニーを祝う席での夕食で、頭がぼんやりとしたままのクリスチャンはマヤの待つ小屋へと向かってしまう。そこには裸の女性が何人かで円をつくりマヤを囲んでいた。クリスチャンはそこでマヤとセックスを強制させられる。

ダニーはその小屋からの声を不審に思い覗いてしまう。クリスチャンとマヤのセックスを目撃したダニーはショックで嘔吐した。

我に返ったクリスチャンは小屋から全裸で逃げ出すが、途中で黒人男性の片足が埋まっているのを発見しジョシュのものだと悟る。また、別の鶏小屋でも内臓をえぐり取られ、両目に花が刺さった状態のサイモンの死体を発見する。そして死体を見て動揺したところを村の老人に見つかり、奇妙な粉を吹きかけられ気を失ってしまう。

翌日、生贄を決定する儀式の場で選択権は女王ダニーにあった。9人のうち4人は村人から(老人男女2名と志願者2名)、残りの4人はコニー、サイモン、マーク、ジョシュ(全員死んでいたことが分かる)、そして残りの一人を村の人間とクリスチャンどちらかからダニーが決定するということだった。

ダニーはクリスチャンを生贄に選んだ。彼は熊の毛皮に入れられ、残りの生贄たちと一緒に「神殿」の中に入れられた。神殿ごと火をつけられ生贄たちは苦しみながら死んでいった。その様子を祝うかのように叫びながら見守る村人たち。初め、クリスチャンを見つめながら涙を浮かべていたダニーの表情も最後は微笑みへと変わっていた。

 

感想

147分の悪夢

ホラー映画は「日常」と「非日常」、「快」と「不快」を対立させて恐怖心を煽るものが一般的なため、キャラクター設定は割と自分に置き換えて感情移入できる平凡なものであることが多いけど、この映画はそんなこともない。ゴア描写が始まる前、ホルガに行く前からずっと不気味で147分間ずっと居心地が悪い。それは多分、気が合う訳でも心を許しているわけでもないのにとりあえず一緒にいる友人たちや、「面倒くさい」と思いながらもダニーと一緒に居るクリスチャン、そして理由も明かされないまま死んでしまうダニーの家族、幻覚でぐにゃっと歪む視界、不穏な要素がグロ以外の背景の部分でたくさんあるからのように思う。

 

感情も共有する意味での「共同体」

ペレもダニーも家族を亡くしている。そしてペレは人々を殺害する様子を見て戸惑っているダニー達に「ここが僕にとっての家族で故郷なんだ」と説明する。

ペレの両親は火事で亡くなったと明かされるが、実際は火事と言うよりもラストシーンのようにホルガの風習の生贄になったのだろう。そしてその心の隙間をまた感情や思想をも共有する意味での「共同体」の中で埋めるしかなかったのかもしれない。人生は「四季」なのであり、72歳の冬まで全うしたら死を選ぶのだと村の人々が語っていたように、宗教は「生」にも「死」にも答えを提供してくれるものだ。理不尽に悩むことに疲れてしまった人々にとっては心の拠り所へと変化していくものだろうと思う。

 

ラストシーンの解釈:ダニーはなぜ微笑んだのか

アリ・アスター監督はラストシーンに関して「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」と語っている。

恋人であるクリスチャンを生贄に選んだのは彼がマヤとセックスしてしまったからなんだろうか。それとも混乱して自分でもよく分からないまま選んでしまったのか。それとも心から自分に寄り添ってくれなかったクリスチャンに対する復讐なんだろうか。あるいは倫理や常識からかけ離れた一連の行為がダニーの心の隙間を不謹慎な快感で満たしてしまったからなんだろうか…。観る人の解釈によって変わるし、監督の言うようにそれは論理を失った一つの美的なものとしてそのまま享受するのが正しいような気もする。

ラストシーンは「家族の喪失」や「恋人への不信感」によってできてしまった精神的な破綻がいかに深刻なものだったのかが分かるシーンだったように思う。三島由紀夫が「傷を負った人間は間に合わせの包帯が必ずしも清潔であることを要求しない」と言っているように、ダニーやペレも自分の居場所に倫理観を持ち合わせることができなかったのだ。

 

誕生日を忘れる恋人

ダニーがクリスチャンに不信感を抱いてる理由は共感してくれないからだ。ダニーが老人男女を殺す村人たちに怯えているときも「偏見は持ちたくないんだ」と言うだけで、自分の論文を書きたかったから「もうこんなところ帰ろう」とも言わない。

また、クリスチャンはダニーの誕生日を忘れる。途中で思い出し、そこらへんで売ってたパン?を買ってきて誤魔化すのだが、何もあげないほうがよっぽどマシだと思うくらいお粗末すぎて酷い祝い方だ。丁寧に似顔絵を描いてくれたペレと比べるとよりその差は際立つ。

誕生日をちゃんと祝福してくれない恋人に「キリスト教徒」を意味するクリスチャンという名前がつけられているのは、ホルガの人間であるペレが誕生日を丁寧に祝ってくれたことと対比して「倫理観を欠いた宗教が自分を肯定してくれた」ということを強調しているからのような気がする。

 

まとめ

とにかく開始から最後までずっと悪夢的で観終わった後にどっと疲れてしまう作品だったが、人間の精神の破綻を一つの芸術として昇華した美しい作品だったと思う。作品自体を「そういうもの」として享受した方が楽しめる作品なので、「正しさ」という観点で映画を観る人にはもしかしたら合わない映画かもしれない。

何回も観たいと思う映画ではないけど、スウェーデンの幻想的な村の風景とグロテスクな描写の対比が画として綺麗で不思議な魅力に溢れていた。裸の女性たちがマヤを囲んでいるシーンはキューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」を彷彿とさせるし、ヒューマンドラマ的な考えさせられる要素もあるので個人的にはかなり楽しめた。グロ耐性を持っている人には是非一度観て欲しい。