映画「たかが世界の終わり」あらすじ感想 世界が終わっても壊したくなかったものとは
「ある家族の一日」をテーマに人間の不器用さと愛情、憎悪と悲劇を描いた映画。天才的な演出センスが爆発した私的グザヴィエ・ドランの最高傑作!
監督・脚本:グザヴィエ・ドラン
出演:ナタリー・バイ、ギャスパー・ウリエル、ヴァンサン・カッセル、マリオン・コティヤール、レア・セドゥ
19歳でカンヌデビューした天才、グザヴィエ・ドランの2016年公開作「たかが世界の終わり」。
ジャン=リュック・ラガルス(英語版)の戯曲『まさに世界の終り(フランス語版)』を原作としている。
この作品は実は批評家からはあまり評価されていない。個人的にはグザヴィエ・ドランの圧倒的最高傑作だったので、このギャップにはかなりびっくりした記憶がある。
映画を観ても「よく分からなかった」となっている人も、グザヴィエ・ドランがこインタビューで語ったこの言葉を思い出してから改めて「たかが世界の終わり」を観ると全く違ったものに見えると思う。この映画はストーリーがジェットコースターのように起伏して観客を楽しませるものではないけれど、ある家族の1日の中に垣間見える人間の不器用さと愛情、憎悪と悲劇が詰まった飾らない人間模様に自分の人生や身近にいる人々に思いを馳せずにはいられなくなると思う。
重要なのは、ある午後この人たちが一緒に時を過ごし、一つの空間でどう展開するのか。誰かが耳を傾けていて、誰かは上の空、誰が誰を見ていて、誰が誰を守ろうとしているか。これは人生そのもの。お互いに驚くほど無関心で、愛し方を知らない人たちの人生の中で、瞬きのような、とても限られた一幕。観客のみなさんに判断を委ねています。
あらすじ(ネタバレ有)
「もうすぐ死ぬ」、作家として成功したルイは家族にそう告げるために12年ぶりに帰郷しようとしていた。ルイ(ギャスパー・ウリエル)は病に侵され、余命はわずかしか残されていなかった。
家ではルイの好きな料理を用意して待つ母のマルティーヌ(ナタリー・バイ)、ルイとは幼い頃に別れてほとんど他人に近い妹シュザンヌ(レア・セドゥ)、どこか冷たい態度のままの兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)、アントワーヌの妻カトリーヌ(マリオン・コティヤール)がルイを迎え入れた。
ルイが着くと喜びを露骨に顕にする母マルティーヌと妹シュザンヌ。ルイはほとんど記憶がない妹の親しげな態度に少し困惑していた。
カトリーヌはルイに挨拶し、自分の息子にもルイと彼の父親から名前をとって同じ「ルイ」と名付けた話を始める。ルイは自然に聞いてる様子だったが、それを見たアントワーヌは「ルイが退屈しているのが分からないか」と突然カトリーヌに苛立ちをぶつける。派手な化粧をしてルイを迎え入れたシュザンヌにも八つ当たりする。
重たい空気になったシュザンヌはルイを自室へと案内し、そこでルイの作家としての活躍が掲載されている雑誌や新聞の記録の切り抜きを見せた。
「どうして帰ってきたの?」とシュザンヌ突然はルイに尋ねる。しかしシュザンヌはその短い沈黙の中に何かを察知したのか、「妊娠でもした?」と冗談を言ってすぐに話を逸らしてしまうのだった。
ガレージで母マルティーヌと二人きりになったルイは「なぜ引っ越し先を教えてくれなかったのか」と聞かれる。ルイは現在の住所を家族に教えていないままだったのだ。ルイに答えを求める前にマルティーヌは「あなたのことは理解できないけど愛してる」とだけ伝えて抱きしめる。ルイは母親と二人きりになれたその場面でも自分がもうすぐ死ぬということを伝えることができなかった。
テラスで全員そろって昼食をしていると、アントワーヌとシュザンヌが再び口論を始めてしまう。乱暴に口汚くののしるアントワーヌに対してマルティーヌは叱るがシュザンヌは席を立ってしまった。
やりきれなくなったルイはかつての自分の部屋に逃げ込み、昔の恋人ピエールのことを思い出す。しばらく部屋の中で呆然としていると、カトリーヌにデザートに呼ばれ我に返る。
たばこを買いに行くアントワーヌに付き添うことにしたルイは、その車の中で何気ない雑談を始める。しかしそんな何気ない話にもアントワーヌはいちいち突っかかり、「どうして帰ってきた?でも俺はそんなことは知りたくない」と声を荒げる。更にアントワーヌはピエールがもうすでに癌で亡くなっていることを伝え、更にルイを暗い気持ちへと追い込むのだった。
家に戻り家族でデザートを囲むも重苦しい空気は続いたままだった。ルイは「話がある」と切り出す。12年間も留守にしたことを謝罪し「次はもっと早く帰ってくるから」と丁寧に伝えた。ルイがもう帰ると伝え切り出そうとしたそのときアントワーヌが「ルイは用事があるから帰らないといけない」と遮る。
明らかにルイを追い出そうとするアントワーヌにマルティーヌもシュザンヌも声を荒げ怒り出す。家族の口論がヒートアップしてもう自分の死を告げるチャンスはないのだと察したルイは遠くで持ているカトリーヌに微笑み、家を去ろうとする。家族はルイが去ってっしまったことにも気づかないで口論を続けていた。ルイが自宅を去ろうとすると一羽の鳥が入ってきて、やがて床の上で死んでしまうのだった。
感想
「たかが世界の終わり」というタイトル
「自分の死を告げに帰郷したのに結局言いだせないまま帰る」という設定で進む家族のある一日を描いた会話劇。こんなに重たく不器用で人間味が詰まった映画があるだろうか。「ルイが帰ってきたのには何か理由がある」と思いつつも聞けない家族、言えないルイ。ルイにとっては自分が不在の12年間に出来上がっていた家族の歯車を壊すことの方が「自分の世界が終わる(=死)」よりも怖かったのだ。観終わってからこの「たかが世界の終わり」というタイトルを見るとなんともやりきれない気持ちになるし、「愛が終わることに比べたら、たかが世界の終わりなんて」というキャッチコピーにもはっとさせられる。
アントワーヌからは仕事でも成功し性格も温厚で知的なルイへの嫉妬や自分の居場所を脅かされる恐怖が垣間見れる。カトリーヌはどこか一歩引いたところで皆を見ていて、関心が薄いがゆえに一番話を聞いているように見える。シュザンヌやマルティーヌはルイのことを大切に思っているがゆえに聞きだしていいのか分からず、明るく振舞って無理をしたり、察しの良いふりをしてごまかしたりする。いわゆる一般的な「映画」とは違い、察しが良くスマートに進む場面が一つもないからこそ、自分の日常に近い歯がゆさに心を痛めずにいられない。
主人公の心情を代弁するサウンドトラック
この映画ではサウンドトラックで多くを語らないルイの心情を代弁しているような曲が使われているのが印象的だ。例えばルイが実家に帰郷する際はCamilleの「Home Is Where It Hurts」(直訳:家は傷付く場所)という曲が流れる。
Home is not a harbour
(家はふらっと立ち寄っていい港なんかじゃない)Home, Home, Home,
(家という場所は)Is where it hurts
(傷つく場所なんだ)
そしてルイが自分の死を告げることができないまま去ったあとエンドロールではMobyの「Natural Blues」が流れる。
Oh lordy
(ああ、なんてことだろう)Trouble so hard
(大変な困難だ)Don’t nobody know my troubles but God
(神様以外誰も僕の抱えている困難を知らない)
「神様以外誰も僕の抱えている困難を知らない」というフレーズはまさに、自分の死を一人で引き受けて言うことのないまま去ったルイのためにあるかのように思える。
あと他にサウンドトラックの面白さで言えば「恋のマイアヒ」だと思う。マルティーヌがその場を盛り上げるために皆で踊ろうとかけるのだけど、腹に一物ある人間が集まっている場でかかる恋のマイアヒを聞いていると、こんなに重苦しい恋のマイアヒの使われ方が今まであっただろうか、と観ているこっちまで気まずくなる。不穏な空気感を対比的に出すための演出なのだが、選曲があまりにも絶妙すぎると感じた。
まとめ
「たかが世界の終わり」は冒頭でも述べたようにグザヴィエ・ドランの最高傑作だ。私は「マイマザー」から現時点での最新作「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」までは観ているが、ドラン作品以外も含めて、こんなに圧倒された映画は未だかつてないと思う。ストーリーだけでは伝わらない演出や登場人物たちのセリフや表情に想像力が掻き立てられ、どこまでも感情がとことん揺さぶられる作品