BUMP OF CHICKENの太陽の歌詞から考察する人間関係の難しさ
BUMP OF CHICKENの太陽は、決して明るい曲ばかりとは言えないBUMPの中でもおそらく最も悲しく、暗い感情を歌い上げた人間的な曲だと思っている。
そして、そんな最も暗い曲に「太陽」なんていう最も明るいものの名前をつけるセンスがとても好きだ。
太陽は、リセット症候群的な傾向を持つ人や、人間関係に対して臆病で、それでも誰かを求めずにはいられない人に致死量レベルで刺さる曲だと思っている。
前置きはこのくらいにして、今回はそんな太陽の歌詞と、そこから考える人間関係の難しさについて考察と言えるほど立派なものではないが、特別に思い入れの強いこの曲について考えたことを書いていこうと思う。
心の開き方を間違えた人間の後悔
この曲は心の開き方を間違えた人の強い後悔が歌われている曲だと思っている。
主人公は「影しか見えない」(=姿が見えない、あなたのことが理解できないのような意味ともとれる)と言われたトラウマから、照らされなくて済む光の届かない「窓のない部屋」に閉じこもったのではないかと思う。
そんな「窓のない部屋」に「ライト」(=理解しようとする気持ちのようなもの)を持って探しにきてくれる人が現れる。
「ライト」を持っているのは、主人公の姿を照らすためであり、主人公を理解しようとやってきてくれたことが示されている。
そんな自分に手を差し伸べてくれた人に対して、主人公は自分と同じ「窓のない部屋」まで来て欲しいと願い、君の「ライト」を壊してしまう。
そして、その瞬間に光が失われたことによって「君」の姿は見えなくなり、自分と同じ世界まで来て欲しいと願ったことが過ちだと理解するのだった。
この曲は隠喩が多いが、心を閉ざしてしまった人間が、唯一心を開いた人間に対して、「自分の全てをわかって欲しい」と気持ちをぶつけてしまったが故にその人との関係まで失ってしまった曲であり、共感できる部分がある人もいるのではないか。
窓のない部屋とは
光の届かない「窓のない部屋」は、自分のことを見られる(=照らされる)のが怖く閉じこもっている部屋であり、心を閉ざした精神世界のようなものになっている。
窓がないから朝もやってこないし、「影すら溶けてく世界」だからこそ誰かに「影しか見えない」と言われる心配もない。
でも本当は「それより触ってくれよ影すら溶けてく世界で影じゃない僕の形を」と言っているように、自分のことを誰かに理解して欲しくてたまらない感情を持ち続けている。
「誰にも見つけてもらいたくない」と思っているはずなのに、本当は誰よりも自分のことを理解し、探してくれる誰かを待っている。この感情を知っている人は少なくないと思う。
主人公の過ちとは
主人公は「窓のない部屋に来て欲しかった」と願い、君の「ライト」を壊してしまう。
「自分を理解して欲しい」という気持ちが強くなってしまった結果、最終的に「自分と同じ世界にいてほしい」「自分と同じものを見て欲しい」と願ってしまったのだ。
「理解しあう」のと「自分と同じものを見て欲しい」というのは似ているようで違う。
前者は自分と相手が違う存在であるということを前提に相手を理解し合うのに対し、後者は相手に自分の世界や価値観を押し付ける行為であり、主人公は心を許した「君」に対してそこまでを願ってしまったのではないだろうか。
だからこそ、ライトを壊して同じ光の届かない「窓のない部屋」に来てもらおうと願った。
でも、君はそんなことをしなくても既に「僕を探しに来てくれてた」わけで、ライトを壊す必要なんてなく、その行為が過ちだったと気が付く。
そして、光の向こうの君の姿は永遠に見えなくなってしまい、「窓のない部屋」に来て欲しいと願ったことによってもう君には会えないと悟る。
改めて、自分の存在を理解してもらうことに飢え、それを相手に求めすぎたばかりに、相手の優しさや考えを否定してしまい、最終的には相手がいなくなってしまうという経験がある人には刺さる曲だ。
そして同時に、「誰にも理解されない」とシャットアウトしていながら、本当は「誰かに理解してほしい」と誰よりも願わずにはいられない人間の弱さを感じずにはいられない曲になっている。
「それが見たかったんだと気づいた」の「それ」とは?
先ほども紹介したが、この曲の終盤には「光の向こうの君の姿が永遠に見えなくなってしまった / それが見たかったんだと気づいた」という歌詞がある。
ここで示す「それ」は順当に解釈すると「光の向こうの君の姿」になるが、「光の向こうの君の姿が見えなくなったこと」とも取れるのではないか。
後者だとすると、「君の姿を見えなくなった」ことを、心のどこかで望んでいたという解釈であり、一見矛盾しているようだが、すごく人間味を感じるのは自分だけだろうか。
主人公が「君のライト」で照らされた時に「暖かくて寒気がした」と感じているように、照らされるのは怖いことであり、同時に相手の姿を見て受け止めることも怖いことだ。
これは「時空かくれんぼ」でも近い考え方が言及されている(「輝くものは照らすからそれが怖くて触れられない」「見つめなければ見られたりしない」など)
だからこそ、「君の姿が見れなくなった」ことに心のどこかでホッとしているという風にも取れることができる。
「それ」に置き換えられていることによって、言葉に解釈の余白ができているところも、BUMP OF CHICKENの歌詞の好きなところだと感じる。
決意のきっかけになる「ドアノブ」
「ドアノブ」に関しては公式のインタビューがあるので、藤原基央さんの言葉をそのまま引用させていただく。
藤原「ほんとうの意味で触れる、ということがどれだけ怖いことか。触れられる、ということがどれだけ怖いことか。そこで何かを決意している曲です。自分の意図していないところで、ひょっとしたら取れてしまうかもしれない。そういう一種の災害的な要素も時には入ってくるという、そういう歌ですね 。」
曲中に出てくる「触れたら取れてしまいそう」なドアノブ。
確かに、「今度こそは」と決意したタイミングで、何かのきっかけでできなくなってしまった、ということは往々にしてある。
それを、「取れそうな壊れかけのドアノブ」という隠喩で表しているところがなんとも絶妙だと思う。
まとめ:太陽という曲について
「太陽」という曲は、人間関係の距離感を間違えて失敗したり、トラウマを抱えた人間にとって薬でもあり見たくもない過去でもあるような曲になっている。
また、主人公が最後ドアを開けて外の世界に出たのかやっぱり出られないのか、に関しても描かれず終わるところもBUMPらしいなと感じる。
これほどまでに暗い精神世界を、物語を通して音楽で聴くことができる曲はなかなかない。
個人的には、聴くことにも向き合う覚悟が必要な曲だからこそ、通学や通勤中に気軽に聴いたりはできないが、それだけ心の中の深い部分に到達できるパワーがある曲だと感じる。
是非、改めて「太陽」を聴いて少しでもいろんな解釈を考えるきっかけにしてもらえたら嬉しい。