欅坂46史上最も救いのない曲「もう森へ帰ろうか?」MV・歌詞 考察

黒い羊、エキセントリックなど欅坂の楽曲には暗くメッセージ性の強い楽曲が多いけど、中でも「もう森へ帰ろうか?」は個人的に欅坂史上最強に救いのない楽曲なんじゃないかと思う。

例えば黒い羊は社会の中での疎外感や孤独、人と違うということで迫害されることを歌った楽曲だけど、曲の最後では「白い羊なんて僕は絶対なりたくないんだ」「そうなった瞬間に僕は僕でなくなってしまうよ」「それなら僕はいつだって それでも僕はいつだって ここで悪目立ちしていよう」と主人公の中で周りと違う自分を認め、楽曲の中で主人公は答えを見つけることができ、聴いている側はそれを一種の希望として受け取ることができる曲になっている。

しかし、「もう森へ帰ろうか?」はどうだろう。主人公は答えを見つけるどころか、曲の最初と最後で言っていることが何も変わらない。確かなのは現実に疲れてしまったということと、「森」に対する脱力的な憧れだけ。「森」へ帰ったあと、主人公がどう変わり、どんな希望を見つけたのかというところは描かれず、「森にこそ信じた世界があるかもしれない」と終始彷徨っているだけでこの曲は終わってしまう。従来のアイドルソングは、苦悩を取り入れたとしても終盤で答えが見つかり、希望が見えてきたところで終わるのが定石だったと思うから、それを考えてもやっぱりあまりにも異質な楽曲だと思う。

テーマは「大量生産されるアイドル」

もう森へ帰ろうか?

街には何もなかった

想像してた世界とはかけ離れていたよ

これは齋藤冬優花さんのブログでも書かれていることだけど、この曲のテーマは「大量生産されるアイドル」。楽曲の振り付けもロボットが生産されるような機械的な動きが多く、MVの中でもメンバーは工場のような場所の中で檻の中に入れられている。メンバーたちの虚無感でいっぱいでありながら狂気的にも思える表情は、本当に普段とは別人なんじゃないかって思ったくらい、忘れられないものだった。欅坂の場合、表現をして自分をアピールするのではなくて、インタビューを読むたびにメンバーが口を揃えて「この曲がそういう曲だから」と答えていて、自分を出すことよりも、というよりむしろ自分を殺してでも楽曲を伝えることに重きを置いてきたのが本当に今までのアイドルとは根本的に違った部分だと感じるし、「もう森へ帰ろうか?」はそんな象徴のような曲に思う。

MVの中で「新曲聞いた!ダンスがかっこいいけど・・・「もうちょい愛想良くしてほしいよね。世界観すごいけど」「もうちょっと飽きてきた?」「アイドルがアーティスト気取りかよ」というSNSの書き込みに埋め尽くされた部屋の中に立ち尽くす平手さん。この書き込みも一部の強い誹謗中傷じゃなくて、実際にSNSでありそうなくらいリアルな欅坂に対する冷笑的な意見を取り上げているのが印象的だ。そしてこの書き込みが大量に印刷された紙に埋もれた「大人は信じてくれない」の歌詞(次のカットでは二人セゾン「一瞬の光が重なって折々の色が四季を作る」の歌詞が埋もれている)。満身創痍で伝えようとしても、悪意を持った無感動な民衆には届かなかったということを暗示している。

大衆の悪意に晒されて、本当の苦しみや悲しみさえも見ず知らずの人たちにコンテンツのように消費され、挙句の果てには使い古されて捨てられてしまうことが分かりきっているという物語を演じた時、メンバーは何を思ったのだろうと思わず想像してしまう。この楽曲の世界はフィクションでも、その中の物語はそのくらいあまりにも等身大だ。

MVの中で、過去の欅坂のMVが防護服を着た人のゴーグルに映し出されるという演出がある(手前から不協和音→二人セゾン)。平手さんは逆方向へ向かって歩いているので、自分たちが向き合ってきたことに対する否定を感じるし、この作品を出す前の過去に戻ろうとしていることが分かる。また、この防護服を着ている人たちは悪意を持った大衆(あるいはメンバーを傷付けていることに無自覚なオタク)の目に映る自分たちの作品という意味なのだろうか。自分たちは匿名で防護服を着て安全なところにいながら、好き勝手に色んなことを言ってアイドルを消費し、メンバーだけが無防備に汚染された場所を歩いているという演出になっているように思う。




自然(本物)と人工物(偽物)の対比

喧噪の中で 愛語りあっても

鉄やコンクリートは温もりを伝えやしない

この曲では森(自然、生気溢れた世界)の世界に対する憧れが終始歌われ、無機質なコンクリートジャングルでできた都会とその中でロボットのようになってしまった自分たちとの対比がはっきりと描かれる。

対比されているものの象徴として「心臓」がある。このMVには心臓の形を模した赤い光が灯った人工物(上)と、森の中にある本物の火が灯ったキャンプファイヤーの心臓(下)の2つが登場する(この2つは意図的に形を寄せていると思う)。MVのラストでこの人工物の光が消えて心音が微かにするので、この物体は心臓の象徴だと分かるし、森の方の本物の心臓に火が灯ったから偽物の方の光が消えたのではないかと思う。




MVにおける救済

空はなぜか青くもなく汚れている

街にやってきてから深く息もしてなかった

冒頭で述べたように、楽曲の歌詞自体には救いがない。ただ終始「もう森へ帰りたい」という心情を吐露するだけで終わってしまう。従来のアイドルの曲の歌詞構成とは違い、「困難を乗り越えて何かを手に入れる」的なストーリーではないのが、個人的にこの曲の好きなところでもあった。

ただ、このMVのラストにはしっかり「救い」の部分が描かれている。MV終盤までは機械的な動きによって感情を失っていたが、終盤ではメンバーたちは工場から走り出し、綺麗に色付いた空の下で一つになって感情を取り戻したかのように踊り出す。都会の空は「青くもなく汚れている」と表現されていることからも、空が色づいたことは皆で生気を取り戻したという演出なのだと分かる。MVの最後の最後に心臓を思わせる赤い光の塊(人工物の光)が消えて、本物の火が灯り心音がするのもそこから繋がっていると読み取ることができる。

なぜ「森」なのか

もう森へ帰ろうか?

このまま手ぶらでもいい

僕たちのユートピアは

現実逃避だった

初め、なぜ都会に対してのユートピアが「森」として表現されているのか分からなかった。コンクリートジャングルの世界に対して自然に溢れかえった場所として登場しているとしか思わなかったが、もう一つの解釈として森という言葉がラテン語の「mori」(死)とかかっていて、死の世界なんじゃないかと考えることもできる。

都会という場所を現実に当てはめるとそこに対してのユートピアとして「死」に繋がっているというのはあるのかもしれない。そうするとこのラストは単に生気を取り戻したというよりは「死によって現実から解放された」という意味での救済なのであり、かなりバッドエンドな終わり方をしていると取れる。ただそうするとMVの最後で心音がするのが少し説明がつかないという気もしてしまうけど、人によって色々解釈ができるように意味をかけてこの「もう森へ帰ろうか?」というタイトルにしたのかもしれない。

避雷針の前日譚?

この曲は避雷針の前日譚としての曲なのではという解釈もある。MVを撮った監督も同じだし、避雷針のMVも森の中で撮影されたものだ。また、避雷針はメンバーに宛て書きされた手紙のような応援ソング的なものであると秋元康がインタビューで公言していて、そこにももう森へ帰ろうか?と同じように世間からの悪意やネットの誹謗中傷に疲れたアイドル像がある。更に、避雷針で平手さんが着ているパーカーには「NATURE/CULTURE」と自然と文化という文字が書かれていて、人工物と自然を対照的に描いているもう森へ帰ろうか?とテーマ的にも通じるところがあるし、MVでも平手さんが先に森の中にいてその後からメンバーが追いかけているような流れになっているので、これらのことを踏まえると確かに避雷針の前日譚のような曲になっていると言える。

他の楽曲との関係性で言えば、強い関係で表と裏のような関係になっているのは表題曲の「ガラスを割れ!」だと思う。色んなことにうんざりして現実逃避を続ける「もう森へ帰ろうか?」と、それでも傷付くことを恐れずに表現すること、挑戦することを選ぶという意味で、この2曲は意図的に対照的にしているように感じた。

まとめ

実際に浴びせられたであろう誹謗中傷をMVの中に組み込んで、「大量生産されるアイドル」という等身大の自分たちを表現し、感情を失くした目で壊れたロボットみたいな振り付けでガタガタ震え出したりするこの楽曲はあまりにセンセーショナルで、表題曲ではないという理由で世間的にあまり知られていないのが悔しく思えてしまうほどだ。そしてこんなに細部まで表現することに関してここまでのクオリティーを保つことができたのは紛れもなく欅坂46だったからだし、メンバーがそれくらいクリエイターチームが求めていた深度に応えることができたからだとこのMVを見ると確信する。欅坂46はもう無くなってしまったけれど、普通のアイドルではいられなかったことに悩みながら、ここまで表現することにストイックでいたアイドルがいたことはこれからも多くの人の中に生き続けて欲しい。