音楽史に残る怪作、椎名林檎「無罪モラトリアム」(1999)アルバムレビュー

椎名林檎「無罪モラトリアム」

1999年2月24日に東芝EMIより発売された椎名林檎のデビュー作「無罪モラトリアム」。おそらく椎名林檎のキャリアの中でも1,2位を争うほど人気が高く、椎名林檎をよく知らない人でもこのジャケットは見たことがある人は多いのではないだろうか。

このアルバムに収録されている楽曲のほとんどは、椎名林檎がデビューする前に作曲されている。アルバムタイトルについて彼女は、「人間として生きていくうえで、誰にでも存在するモラトリアムな時期を肯定すること、つまり未完成な自分の存在を肯定するというメッセージを込めた」と述べ、椎名林檎が、”何者でもない自分”と向き合い戦ってきた軌跡を、彼女はこのアルバムに集約しているのだ。アルバムのジャケットには、裁判所にて判決が出た直後の混沌とした様子が写された写真が使用されている。真ん中には大きく「無罪モラトリアム」と書かれた紙を広げている男性が写っており、そのすぐそばには椎名林檎がまっすぐにこちらを見ている姿。カメラ目線なのは彼女ただ一人で、殺伐とした空間の中で彼女だけが浮いて見える。このなんともちぐはぐな様子が奇抜で面白い。



正しい街

「正しい街」は、自分が生まれ育った福岡のことを指している。自分を理解してくれる人たちに囲まれ、数々の温かな思い出がたっぷり染み込んだ地を捨て去り、ひとり東京に飛び出した椎名林檎。ホームシックになってしまった彼女が、一度福岡に帰った際の出来事が歌詞に反映されている。

この曲で中心となって描かれているストーリーは自分の居心地の良い故郷や周りの人の存在を断腸の思いで振り切って東京に飛び出してきたこと。今の椎名林檎のキャリアを思えばそれは大成功だった訳だが、それが未来の話だったからこそ「何が正しかったのか」が分からず揺れているまま終わっているところにグッとくる。そして、そうまで揺れているからこそ東京という街全体が間違ったものに思え「都会では冬の匂いも正しくない」と、季節の移り変わり方さえも否定してしまう。

歌舞伎町の女王

曲の舞台は、日本一の繁華街、歌舞伎町。「一度栄えし者でも必ずや衰えゆく」という一節からは、人間の欲が渦巻く諸行無常なこの街の悲痛な叫びが聞こえてくる。

かと思えば間奏では口笛を吹かし、都会のスカした感じ、斜に構えている空気感が表現されているところも面白い。

巻き舌でハスキーな声で歌い上げられたこの曲は、アングラで脆く、色っぽい、そんな雰囲気が色濃く感じられる一曲だ。彼女は自らを「新宿系自作自演屋」と名付けている。彼女は自らと向き合った結果、お洒落で洗練された雰囲気を目指すのではなく、自分らしさを活かすことを決め、椎名林檎というジャンルを開拓したのである。

丸の内サディスティック

椎名林檎の代表曲であり、多くの人に愛されているこの曲だが、歌詞が意味不明な箇所が少なくない。実は作曲された当初は英語の歌詞が付けられていた。音の響きはそのままに日本語の歌詞に置き換えたものが現在の「丸の内サディスティック」であり、それ故に意味の通っていない歌詞が存在する。その中でも難解なのが、「ピザ屋の彼女になってみたい」という部分。高校を中退し、音楽の道一本に絞ると決めて奮闘していた時期、彼女はピザ屋でバイトをしていたのだが、この背景には彼女らしい独特な理由が存在する。彼女が愛してやまないバンド、「ブランキ―・ジェット・シティ」の楽曲、「ピンクの若いブタ」の中で「ピザ屋の彼女」というフレーズが登場するのだが、おそらく彼女はこのフレーズに影響されている。自分が好き、信じる、と決めたことに対して一心不乱に突き進み続ける彼女の姿が滲み出ているエピソードだ。



幸福論(悦楽編)

椎名林檎のデビュー曲である幸福論。実は幸福論には、通常版の幸福論と、幸福論(悦楽編)の2つのバージョンが存在する。無罪モラトリアムに収録されているのは、悦楽編の方である。こちらは通常版に比べ、スピード感あふれるアップテンポな仕上がりになっていることが特徴的だ。

彼女が18歳の時に書かれたこの曲には、愛する人の全てを受け入れ、許すこと、それが自分にとっての幸福であると何の疑いもなく信じている様子が映し出されている。だが、タイトルに「幸福論」とあることでそれが現実を伴わない一種の哲学であり、理想でしかないことを暗示しているようにも思えるところも面白い。

ここでキスして。

芯の強い、エネルギッシュなアカペラから始まるこの曲。恋する女の子が相手への甘い気持ちを語ったかと思えば、次の瞬間にはひどく嫉妬に狂ってしまう、そんな風に愛しい人に心底惚れている様子をリアルに描いた曲として、若い女の子の間で評判になった。“こういうのを歌って欲しかった“という彼女たちのニーズを掴んだのである。

好きな人のアナーキーさをピストルズのボーカル、シド・ヴィシャスのようだと喩え、そんな人を理解し、捕まえていられるのは自分だけなのだと自惚れているところに思い浮かぶませた少女像。「どこにだってあなたほどの人なんていないの、あなたしか見えないのよ」と叫んでしまうほどに愛しい人なのに、相手の前では強がって平然を装ってしまう姿や、”あなたに相応しい人はわたししかいない。“と自分に言い聞かせ、恋という一種の執念を前にしてもがく女の子の様子が鮮明に描かれている。



まとめ

椎名林檎の必聴盤であるこのアルバムは彼女の哲学が溢れたアルバムと言える。サウンドも力強いバンドサウンドの曲が多く、感情を揺さぶられる熱量に溢れた作品だ。ストレートなロックサウンドでありながらここまでこのアルバムが特別なのは、10代の彼女の目に映った東京の暮らし、献身的な愛情、狂気、そして彼女自身の物語が詰め込まれていて、歌詞を噛み締めて聴くような楽曲が揃っているからかもしれない。もはや事件的とも言えるほど、邦楽史に名を残す紛れもない名盤と言えるだろう。

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画像出典元:「椎名林檎・東京事変オフィシャルサイトSR 猫柳本線」より