キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)を深掘り考察

言わずと知れたサリンジャーの名作「ライ麦畑でつかまえて」

ちなみに筆者は村上春樹の訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でもう一度読み直した。完全に余談だが、村上春樹は人の話の訳でも「やれやれ」を連発させていて面白かった。

この話は、社会からの疎外感を感じている人、自分だけが何も上手くできずに一人ぼっちでいるような感覚に陥っている人に読んで欲しい1冊だ。生きづらさを抱えている人に1人でも多く読んで欲しい。




「ライ麦畑でつかまえて」のあらすじ(※ネタバレ)

名門学校に通っていた16歳の主人公、ホールデン・コールフィールドは成績不振によって学校を退学処分になる。

最後にお世話になった先生に会いにいくと、ホールデンの間違いだらけのテストの回答用紙をわざわざ読み上げられる。

ホールデンはうんざりして寮に戻ると、ルームメイトのストラドレイターから代筆を頼まれた作文に取り掛かり、白血病で亡くなった弟のアリーのキャッチャーミットの思い出について書き始めた。

ストラドレイターはデートから戻ってくると、ホールデンの作文に文句をつける。

ストラドレイターがデートした女の子がホールデンと昔親しくしていた女の子だったということもあり、ホールデンは激昂し殴り合いの喧嘩にまで発展する。

その女の子の名前もろくに覚えていないストラドレイターに対して怒りが収まらず、その日の夜に寮を飛び出すことにした。

ホールデンはかねてより、学校のスクールカースト的空気や大人たちの自分の保身しか考えていない身勝手さにうんざりしていた。

ホールデンは自分の信じる純粋無垢な世界が学校以外のどこかにあると信じて、たった1人でニューヨークに行くことに決めた。

ニューヨークでホールデンはホテルを転々としながら暮らし、様々な人に出会う。しかし多くの人は彼をがっかりさせる人ばかりだった。

ホールデンはホテルで男に「娼婦を5ドルで買わないか」と言われ、買うことにした。サニーという娼婦が部屋にやってくるが、ホールデンは気が乗らず「ただ話がしたい」と言う。

サニーは気味悪がり、すぐに部屋から出て行ってしまう。

その後娼婦をすすめてきた男が部屋にやってきてホールデンに10ドルを請求する。ホールデンは「5ドルと言われた」と反抗すると、娼婦も「10ドルのはずだ」と言い、ホールデンは男に殴られてしまったのだった。

またしても気分が落ち込み、嘘や自分の利益だけを追求する社会にうんざりしてしまうホールデン。

ホールデンは子供や清貧な修道院の女性、そして幼い妹のフィービーなど無垢な存在に対する愛情はあるものの、そうではない大人たちに対しては「インチキ」だと心の中で蔑んでいた。

でも世間で生き延びていくためには、心にもないことだってある程度は口にしなくちゃならないんだ」と考えていたホールデンだったが、だからこそ「言葉」が全ての「インチキ」の元凶なのではと考え、聾唖者として田舎で暮らすことを決意した。

ホールデンは一度、妹のフィービーに「なりたいものはある?」と聞かれ、「ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ」と伝えたことがあった。

子供しかいないライ麦畑の世界で、誰かが崖から落ちそうになったら自分が受け止めてあげるのだと。

とにかく純粋無垢な世界にいたいホールデンはそう決意すると、最後に妹のフィービーに別れを告げるために会いに行くことにした。。

フィービーは泣きながらホールデンを止め、困ったホールデンはフィービーを泣き止ませるために動物園に連れて行く。

そのうちに雨が降り始めるが、そんな中でもいつまでも楽しそうにしているフィービーを見て、言いようのない幸福を感じたホールデンは、家出をすることを思いとどまるのだった。



「ライ麦畑でつかまえて」の5つのポイント

あらすじを読んでいただけたら分かるよう、「ライ麦畑でつかまえて」とは一言で言えば繊細な少年が感じている生きづらさをひたすら吐露した小説だ。

あらゆる人に出会っては毒を吐いたり、感情を激昂させたり、時には優しさを見せたりするホールデン。

彼は社会に当たり前のように蔓延する嘘や利己主義、偽善が受け入れられず、「インチキ」だとしてうんざりしてしまう。

いわゆる厨二病と解釈されてしまう話でもあるのだが、それはホールデンが色々な物事についていちいち真剣に考えてしまうがゆえの繊細さから来ていて、それが彼を生きづらくさせているというところがこの小説が共感を呼んでいる理由なのではないかと思った。

ここからは、5つのポイントに絞って「ライ麦畑でつかまえて」をより詳しく見ていきたい。

1. 「ライ麦畑」とは、純粋な子どもだけがいる世界

主人公、ホールデンは妹のフィービーから将来なりたいものについて聞かれた時にこう答える。

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね。」

村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」単行本P286-287

「ライ麦畑」とは子どもしかいない世界であり、そこから「落ちる」子どもたちをキャッチして救いたいのだと言う。

これは自分らしさを失い社会と迎合する選択をとろうとする子どもたちを自分が助けて、その純粋な世界にいさせ続けてあげたいという意味として使われている。

ホールデンはストラドレーターをはじめとする様々な人を「インチキ」だと罵倒するシーンがあるが、そんな「インチキ」にまみれた社会と対極にある理想郷のような世界が「ライ麦畑」なのだ。

そんな「ライ麦畑」で、誰も「インチキ」にならないようにというホールデンの思想が込められている。

そして、それは社会と折り合いをつけて上手く生きることができないホールデンが、そんな自分自身を受け入れてくれる居場所が欲しいという切実な願いであるようにも感じられた。

この不変の純粋さを願うホールデンの考え方は、文中のこの一文にも顕著に現れている。

ある種のものごとって、ずっと同じかたちのままあるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたらいちばんいいんだよ。

村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」単行本P206

2. “キャッチャー”としてのアリー

ライ麦畑の「キャッチャー」になりたい、とホールデンは語るが、現実世界の”キャッチャー”としてホールデンの弟でもあるアリーが重要な役として登場する。

アリーは白血病で亡くなっているが、キャッチャーミットを持っていたという描写があり、精神的な意味のキャッチャーとかかっている。つまり、大人になりきれないホールデンのことを受け入れてくれた存在だったのだ。

ホールデンはこのアリーのことが大好きで、「君もアリーを好きになっていたと思う。彼は僕より2歳年下だけど、僕より約50倍も知的だ。彼はとても知的だ。」と語っている。

心の中で胡散臭い人間を散々毒づくホールデンが大絶賛している数少ない人間だ。

キャッチャーミットの上に詩を書いていたというアリーは、ホールデンにとって知的でありながらも、子どもっぽい純粋さも忘れない貴重な人間だったのではないかと思う。

3. ホールデンの偏った視点

ホールデンは人をインチキかインチキではないかで分けているため、その人に対する評価が極端だ。

例えば、妹のフィービーや弟のアリーのような純粋さを失っていない存在に対しては過大評価、反対にストラドレーターのように女の子にも困らず上手くやっているような友人に対しては過剰なほど罵倒をする。

他にも、カフェで出会った清貧なシスターたちのこともビジネスの匂いがしないからか、好ましく思い10ドルものお金を渡してしまう。

このホールデンの偏った視点で進む文章は、ある意味で信頼できない語り手の文章を読んでいるような錯覚を覚える。ただ、客観的ではないからこそリアルな印象もある。

4. 繊細な優しさを持ち合わせるホールデン

ホールデンという少年は、終始多くの人を「インチキ」だとしてそれに対する罵倒を心の中で浴びせているが、繊細な感性と優しさを見せる。

例えば彼が娼婦を部屋に呼ぶシーン。ホールデンはセックスをすることに固執しているにも関わらず最後まで経験したことはなかったため、「練習」のため娼婦を呼んだ。

にも関わらず彼はセックスをするどころか、「話がしたい」と言い娼婦を困惑させる。そして、娼婦のドレスを見て言いようのない寂しさを感じてしまうといシーンがある。

娼婦を前に「できなくなってしまう」のは、お金で女性に身体を売らせることに対する罪悪感だろうか。昔はそういう感覚が今よりはないとはいえ、繊細なホールデンはそこに何らかの「インチキ」を感じてしまったのかもしれない。

そしてその娼婦のドレスに寂しさを感じる彼の感性こそが、彼を生きづらくさせている元凶でもある。共感力の高さ、想像力の豊さが、彼自身を追い詰めている。

また、ホールデンはかつて同室になったスレイグルが、安物のスーツケースを並べたくなくてベッドの下にずっと隠していたのを見て、本物の皮でできている自分のスーツケースと取り替えてあげたいと本気で思っていたということを思い出す。

ホールデンは安物のスーツケースを見ると「落ち込んでしまう」のだと心の中で呟いている。そして、挙句その人まで嫌になってしまうのだと。

ホールデンの家庭は裕福だったが、そういう惨めさを想像すると、想像力の高さ故に必要以上に疲弊してしまうのだ。この感覚は共感できる人も結構いるのではないだろうか。

回転木馬に乗る妹を見るラストシーン

家族を捨てて出ていくことを決めたホールデンだったが、最後回転木馬に乗って楽しそうなフィービーを見て感極まり思いとどまるというラストでこの物語は終わる。

これは不変の純粋さを願っていたホールデンが、楽しそうなフィービーといつまでも止まらない回転木馬に不変の純粋さのようなものを見出して思いとどまるという風に見えた。

ホールデンにとってフィービーは数少ない「ライ麦畑の世界の住人」であり、世界の綺麗な側面の象徴のような存在だったと思う。

だからこそ、そんなフィービーに心を打たれて、「もう少しこの世界で生きてみよう」と思うラストは小さな希望を感じさせるとても美しいものになっている。

まとめ:ライ麦畑でつかまえての個人的感想

この小説は何か教訓があるような小説ではない。

大人になっていく場面で変わることを求められる場面に直面し戸惑い、どう生きていくべきかが分からなくなってしまう少年の心情がひたすら吐露されている。

どのタイミングで読むのかによって感想は変わるのかもしれないが、24歳というタイミングで読んだ筆者にとっては、自分がホールデンの目から見た時にはきっともうインチキな大人なのかもしれない、なんてことを共感より先に思った。

そこで年齢を痛感するとともに、学生時代、自分の中にもあった譲れなかった価値観やある種の潔癖さを失っている自分にも気づかされるきっかけになった。

ホールデンがヘミングウェイを「インチキ」としていたように、筆者自身も学生時代は頑なに嫌いだったリュック・ベッソンの映画やエリック・クラプトンの音楽なんかも大人になってからは何も思わなくなってしまった。ホールデンに共感できる年に出会いたい一冊だったし、ホールデンに共感できてしまう年に出会うのが怖い本でもある。なぜなら、ホールデンの生き方に共感することは、あまりにも生きづらい道を選ぶことになるからだ。

純粋さは貫き通すと他人から見た時に狂気に近く、ホールデンにとっては社会のすべてが狂って見えるが、周囲からはホールデンが狂って見えている。この溝の埋まらなさ、自分の価値観が脅かされる感覚は言いようのない不安を覚える。

社会と折り合いが上手くつけられず、生きづらさを感じている人にはドンピシャで刺さる話なので是非手にとって読んでみて欲しい。

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